日々徒然 

5分で書ける程度の戯言

サイドバイサイド 隣にいる人 ~莉子~

   その日の朝は全くいつもと変わりがなかった。

   ふと見上げたダイニングテーブルの上の梁に、小さな絵が貼り付けてあった。

   鉛筆で、拙く。

   丸い松ぼっくりのような、多弁の花の蕾のような~

 

 

 

 

   過日のことを思い出した。

   

 

 

   その頃、夕食のあと入浴も済ませると美々は莉子の部屋に入り浸った。

   こんな小さな子でも、自分の母とその恋人のことが理解出来ているのだろうか。

   幼い子にこれまで触れることの無かった莉子は、不思議な気持ちで美々と過ごした。元々美々は人懐こいほうだろう。反して莉子は"人という存在"に対して緊張する方である。

   その緊張が嫌で、いつの間にか他者のことを考えなくなった。つまりは自分はひとりだ、別に他人など関係ないではないか、自分は自分の絵が描ければ良いのだ。

    そう考えついたときから、莉子にはあまり色の区別がつかなくなった。美しいのは白い絵の具だった。油の配合で厚みを出し、陰影の濃淡を描く、それは闇の中で見えるたった一つの光り、まるで夜空の月のように莉子の住む暗がりを照らした。

 

   そんな莉子がここに来て興味を持ったのが詩織と美々の母娘だった。

   きっかけは未山だっただろうが、莉子の心を揺さぶったのは詩織と美々だった。

   自分のお腹に宿ったものに戸惑って、不安で、体調も優れずに……闇に埋もれてしまいそうなところを掬い上げてくれたのだ、眩しいくらい鮮やかな色を纏ったひとだ。

   そして美々に"触れる"ことによって、自分のお腹で確実に育っているものの正体をイメージすることができた、不思議な存在。

   子どもなんて煩わしいだけじゃないだろうか。

   きっと彼だって喜びはしない、草鹿にはきっと莉子だけでも充分重荷だったろうに。

   

   いま、自分の傍らで落書き帳に自由にクレヨンで世界を広げる美々に、莉子は気になっていることを聞いた、いやがるだろうか?  だが、聞いてみなければ始まらない、忌避されるようなら許して貰えるまで謝るしかない。

「パパは?」

「美々の?」

「うん、」

「いるよ、でもいない」

「会ったりしないの?」

「うん、会わない」

   打てば響くような速さで答えが返ってきた。

   よく分からない返答だ。

   "いる"も"いない"もたくさんの意味を含んでいるように思える。

   ただ、"会わない"と返ってきたことを考えると『生存はしてるけど、家にはいない、会うこともない』ということだろう。

   あまり感情も乗せられずにあっさり返された答えが、本当は何を示すのか分かりかねて、莉子はそれ以上訊くのをやめた。

   いつまで世話になるのか分からない母娘のことに深く立ち入るのはあまり好ましくはないだろう。それでももしかしたら、母娘と長く付き合うことになれば、そのうち話してくれることもあるかもしれない。

   そしてその頃には莉子自身も、自分と自分の子のことを、詩織と美々に話せるかもしれない。

   この夜、この後に美々を迎えに来た詩織は描きかけの莉子のキャンパスを見てこれは月かと問うた。

   まあるく、それでもちょっと歪に描かれた線——

   むしろこれだけで美々がどうしてこれを未山と受け取れたのか分からない、まだ粗い下書きのようなもの……

   莉子は答えた、これはイメージのようなものを描いているだけで・・・

「そっか、貴女の本当の心ってことだね」

   そう言い置いて、母娘は自らの寝室へ引き取っていく。

   屈託なく投げキスを連発する娘と、それに乗じて一緒にキスを投げて寄越す母に微笑ましさを覚えずにいられない。

   その分、少しだけ考えた、自分の本当の心とはなんだろう。

   理論づければ、莉子が見ている~或いは描きたい未山の姿を美々は同じように受けとった。しかし詩織は違うものに捉えた。

   ところが莉子は実際、未山を月のような存在のように思っていた節がある……自分のイメージなのに"節"などと曖昧な表現になるが、莉子の中で未山という男の子はそんな感じだった。

   たった一つの得難い光りなのに、それは莉子自身の世界を邪魔しなかった。むしろ少しずつ形を変えてもそこにいて、莉子を、莉子だけを照らしてくれた。莉子と、莉子が大切にしたいものを守ってくれた、そのために自分を削っても、傷つけても厭わない様子だった。

   お揃いのタトゥーを入れたのだって……

   未山は後悔しなかっただろうか。

   わがまま放題の、恋人とも言えないような女に縛られて。

 

   だからあのとき——

 

 

 

 

   昼過ぎに詩織から電話があって、未山はそのまま出掛けて行った。

   天気もいいし、本当はまた美々と外遊びする予定だったのだが、詩織の頼みとあれば仕様がない。少し心残りな表情も見せたが、結局出掛けて行った。

   美々は人に対するハードルが低くいらしく、莉子ともすぐに馴染んだ。そんなに顔色を見るなどの様子は見せないが、莉子が嫌がるようなことは言わないし、しない。絵の具でイタズラもしないし、自分の領域で自分の遊びをしてくれて、たまに同じように絵を描いたりして莉子に見せてくるくらい。

   子どもってこんなふうに育つものだろうか。

   莉子はたまに自分の腹と美々を見比べたりして、すると腹の中で何か蠢くような気配が確かに感じられハッとしたりする。そういえば数週間前から腹の中を擽られるような気がしていたが、あれはこれだったのか。

   しばらく莉子の部屋で、それぞれの"作品"制作に勤しんでいたが、いつの間にか眠ってしまった美々を寝かせたまま部屋を出た。

   水を飲み、そういえばこのキッチンでの詩織と未山の会話を思い出す。

   思い出せないものを欲しいと思う。

   食卓を照らす明かり、それは大事なものだからと、詩織は一生懸命思い巡らしていた。

 

   この、梁に貼られた小さな絵は、詩織のイメージ。

   本当の心?

   それは多分、確かに多弁の花の蕾なのだろう。

   何色の花?

   詩織のイメージであれば暖色系の明るくて、鮮やかな色?

   白を重ねてグラデーションする手法でしか色を捉えてこなかった莉子に、僅かに色の感覚が戻ってきていた。

   色の"情報"が煩くて自分の頭の中でイメージしにくいと思っていた。

   しかし詩織や美々の鮮やかさはどうだろう?

   騒がしく訴えてくる色もあろう、けれど莉子を莉子のまま、緩やかに包み込み揺蕩うように揺らしてくれる色もある。

 

「莉子ちゃん」

   もう夕方になっていた。そういえば未山は遅いなと思い始めた頃だった。

   お絵描きに飽きたらしい美々が絵本を抱えて立っていた。

   ふたりで絵本を覗き込みながら、詩織と未山の帰りを待つ。

   穏やかな時間。

   未山に貰った本、未山から教わった"四季"、美々の中にたくさんの莉子が知らない未山がいた。

   そしてそのどのエピソードにも、確かに莉子の知っている未山が存在していた。 

   優しいひと

   その優しさが自分一身に向けられていたとき、莉子は自分のためだけに未山が削られてしまうことを恐れた。未山が削ってくるなにかに、自分も贖いたい、報いたいし、単純に返していきたかった。

   だからあのとき、自分から未山の手を振り払ったのだ、その結果がどうなるのか考えもしなかった。

   そしてどうなったのか、目が覚めてもしばらく分かりもしなかった。

 

   絵本が読み終わる頃。

   莉子の部屋からギャッという動物の呻き声が上がった。猫の"あっちゃん"だ。

   絵の具は片付けておいたはずだが~猫のすること、美々だったら控えてくれるところにも乗り込んでいくかもしれないと、急いで見に行くとキャンパスを繋いで描き掛けている絵の下であっちゃんが丸まっていた。美々が駆け寄り、様子を見るとあっちゃんは跳ね起きて、なんの障りもないようであった。

   絵の方は、と言うと、ほとんど乾いたところによじ登ったらしく以前繋いだところの絵の具が削られ解れている。

   美々がその傷を見上げ、心配そうに呟いた「未山くん、大丈夫?」

「大丈夫、なおせるよ」

「ほんと?」

「ん」

   作業はそのまま、いずれやるとして。

   莉子は美々を伴って部屋を出るとほかの遊びに誘った。とはいえ、莉子に子どもの遊びは分からない。絵本は読み終わってしまったし、じゃあ次は何をしようかと呼びかけただけだ。

   美々は直ぐに自分の宝物のビーズや、綺麗な石や、木の実や種がざらざら入った箱を持ち出してきて、ふたりでビーズ遊びを始める。

   リビングのテーブルの上をコロコロ転がるビーズを追い掛けながら糸を通す。いいところまで繋がると、幼い指先には細すぎる糸の端からビーズが溢れ落ちる。たくさんの小さなプラスチックが磨かれた天板を跳ね、踊るようにまた転がった。

   その度に美々は「あー」と声を上げ、それでもまた同じことを繰り返し、繰り返し。

   失敗することへの恐れがなくて、綺麗に並んでネックレスのように首に飾る真似をする。そしてそれをまた惜しげも無く解き、小皿にカンカンザラザラと鳴る音を楽しむように笑った。

   

   

   未山くん

   

   私は

 

 

 

 

   ある日を境に、未山は姿を消した。

 

   あっちゃんが絵を傷つけてしまったせいで? と美々は思い悩んだようだが、莉子はキッパリと「違うよ、絵はなおした、あっちゃんのせいじゃない」 と幼い友人に言い聞かせた。

「美々、ずいぶん前にも未山くんは私の前から突然消えちゃったの、でもここでまた会えた。だからきっとまた会えるよ」

「来てくれる?」

「うん、未山くんは美々のことも詩織さんのことも大好きだから、きっとまた会いに来るよ」

「莉子ちゃんのことも?」

「・・・、うん」

 

 

 

 

   

   もし

   未山が自らの意思でここを離れたのだとしたら

 

   

   いや

   もしかして彼の身に不慮のなにかが起こったのだとしたら

 

 

   詩織にも莉子にも分かっていた、この家は未山にとって仮の宿り

 

   今の彼の本当のことを、二人の女は何も知らない。

   なにかが起こっていたとしてもここに連絡が来る謂れは無い。

 

  

  

 

   詩織と美々は"美しい"を探すピクニックで見た山の色や空の色を再現する作業を再開した。

   モザイクのように深さの違う緑

   下生えに湿って光る土の色

   輝きながら滑る小川の水面

   色セロファンを切って、重ねて、太陽の光に透かして……床に落ちた光の色を集めた。

 

   莉子もたびたび思い返した。

   シュッシュッポッポ、の掛け声で行進した小道

   足元に集う小さくて言葉の通じない生き物たち

   薄雲のヴェールを纏いながら落ちていく夕日の朱

   

   いつも気づくのが遅い。

   未山や詩織たちと夕日を眺めながら、ここに草鹿もいればいいのにと思った、歌が口から零れ落ちてからそんな風に思った。

   絵なんかよりも美しくて大切で、汚したくなくて、傷つけたくないものが、世界には溢れてる。

   ずっと草鹿はそう教えてくれたのに。

   根気強く、言い続けてくれたのに。

 

   いつも自分のわがままで失ってから気づくのだ。

   だから、今度こそ——

 

   いま、陽だまりのリビングで微笑み合う母娘をこれ以上悲しませたくなかった。

   未山の存在を代わることは出来ないけれど、ふたりのためになにかをしたかった。

 

 

   切ったセロファンを拾い集めて、莉子は借りている部屋の窓に貼り付けた。

   色を重ね、たくさんの色を作り、そして透明な光りを様々な色に変える。

 

    "真っ暗なところでそこだけ明るいの、食卓を照らす明かりって大事なんだよ"

 

 

   ある日の朝、完成した白の絵に美しく虹の様な光りが差した。

 

   

 

 

 

 

   そろそろ上着を厚めのものに替えなければならないと思ったその日。

   だいぶせり出してきたお腹がしくしくと痛んだ。

   37週目の検診は明後日だ。詩織の健康管理のおかげで風邪も引かずに過ごして来たけれどここに来て腹痛だなんて……

 

 

 

 

 

 

 

   こどもは生まれた。

   男の子だった。

 

   名前をどうしよう、と呟くと詩織が今はいない人の名を唱えた。

   迷っていた、アラタの名前をつけたい気もしていた。

   すると詩織が、もしかしたらいずれ会うことがあるかもしれないと言ってくれた。

   そんなことがあるんだろうか。

「莉子ちゃんが介さなくても、会うこともあるかもしれないよ、そのときのために」 と。

   なぜだか詩織の言葉はストンと落ちるのだ、飲み込むことができる。

   今はいない人の名前にしよう、忘れたくないけど忘れなきゃいけないから、とも言った。

 

「未山くんはきっと、もう戻ってこない。

   生きていたとしても、……きっと、」

 

 

   忘れなきゃいけないからこそ忘れられない

 

   ううん

   今もそこにいる

 

   食卓を照らす灯りを

   母娘を見つめながら

 

   静かなキッチンにひとり佇む彼が見えた気がした

 

 

 

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